市場原理主義は格差を作る
小泉政権が5年を過ぎ、規制緩和による護送船団的集団規制はどんどん崩壊させられてきた。その結果、格差社会が生まれつつある。小泉首相は最近の弁で、「格差があるのは当たり前」と言い切り、弱者を切り捨てる発言があった。民主主義の名の下に強者だけが勝ち残る、ケダモノの弱肉強食の思想は「市場原理主義」から発せられている。小泉首相の市場原理主義の成果として、先の衆議院選挙があり、国民の世論のサポートをバックに新生自民党で大勝した。
政治はさておき、教育現場の規制緩和の現状を考えたい。国立大学をはじめとする高等教育機関をすべて独立法人化して、その構成員を「非公務員」とし、学校を維持する運営交付金は教職員の給与を包括したものとなり、その運営交付金も競争原理で交付金額が設定されている。学校は学生が学ぶ教育の場であり、競争という不安定な環境では、教育方針が毎年ころころと変わると優れた教育が実践されるはずがない。大学をはじめとする高等教育機関(学校)にも市場原理主義が強いられ、ゆとりある人間形成を基盤とする教育目標が遂行できなくなってきている。
世界に羽ばたく「すぐれた人材育成」こそが国家産業である。教育現場に競争原理による格差ができ、空洞化することは許されない。欧米の大学のように入学しても卒業できないという教育体制を日本の学校に導入するには時期尚早であり、寺子屋的教育方法を伝統に持つ日本には、競争原理の教育方法は根付かないようである。競争原理が教育の基本にないところでは教育そのものに格差を生み、クラス運営では教育できないことになる。具体的には、1クラス40人構成であればクラス順位が1番から40番まで付けられる。大胆な設定で言うと、40人クラスで半分合格とすれば、20人は卒業できない。現在の教育では、40人が個々に努力して40色の個性を持った学生が育つように指導し、ほぼ全員の卒業を目指している。日本の教育では、格差を付けて後半の20人を切り捨てるのではなく、学力を付けるモチベーションを育てている。
学校に学ぶ学生が一時期「勉強したくない。」と学業を放棄する行動を取ることがある。そのとき、そのような学生を競争原理の元、切り捨てることは易しい。しかし、日本の伝統的教育は成り立たないであろう。藤原正彦は日本には「惻隠の情」を育てる思考教育があったと言う。「学生時代、もっと勉強しておけばよかった。」と後悔する人が多いように、学生時代はいろいろと悩み、学業を疎かにするときがある。そして、伝統的な日本の教育は格差社会を生まなかった。今からでも遅くはない。教育現場に競争原理を持ち込むことは止めようではないか。
(吉村 忠与志[福井高専])